甲州ワインが世界最大のワインコンクールで受賞
近年日本のワインが少しずつ海外でも高い評価を得るようになってきています。
イギリスで行われた「デキャンタ ワールドワインアワード2016」では、甲州市の中央葡萄酒が出品したスパークリングワインが、アジアで初めての「プラチナ賞」に輝きました。
しかし、以前は日本のワインは海外では見向きもされませんでした。
日本にワインが伝来したのはいつか?
記録として残っているのは戦国時代。博多商人で茶人の神屋宗湛が、石田三成に招かれた席で、南蛮から長崎へ輸入された葡萄酒を振る舞われたと日記に記しています。
それより以前、築城名人として知られる戦国武将・藤堂高虎が、家臣に「南蛮の酒」をしまっておけと命じた書状が残っており、これがワインであったと断ずる向きもあるものの、その確率は高いとは言え、「南蛮の酒」がワインであったと確定できる根拠はありません。
しかし結局、江戸時代より所謂「鎖国」と呼ばれる海外との貿易の制限を行ったために、明治以前の日本でワインが普及することはありませんでした。
また、ぶどうの栽培自体は鎌倉時代から甲州を中心に行われていたものの、それは食用ぶどうであり、日本人にワインを作ろうという発想もなかったようです。何よりこの国は、少量のぶどうよりも酒造りに向いた大量の米があったわけですから。
明治に入ってやっと再びワインがもたらされるようになります。それとともに西洋種のぶどう生産とワイン造りも始まりましたが、フランス原産の原料ぶどうが病気で全滅したため、ワイン造りも衰退しました。
現在山梨県が日本のワインの中心的立場にあるのは、伝統的にぶどうを作ってきたことに加え、このとき別系統のアメリカ種のぶどうを育てていたため、全滅を免れたから。
しかし、いくら甲州の気候がぶどう生産に適しているとはいっても、それはあくまで「日本の中では」ということ。生食用ではおいしいぶどうを作れても、ワインに適したぶどうはつくれませんでした。
生食用とワイン用のぶどうの違いは糖度にあります。アルコール発酵させるためには、生食用より糖度が高くなければなりません。
昭和のころまでの山梨のワインは、生食用の、しかも出荷に適さなかったもののみを使って作られていました。だからワインとしてはあまりいいものが作れなかったのです。
しかし、その後ワイン需要の高まりで、山梨県ではワインに適したぶどうの生産が試行錯誤されるようになります。品種改良とともに、ぶどうの育て方自体も、あまり水分を吸わせずに糖度を高めるような方法が確立されていきました。
そのようにして、県、研究機関、生産農家、ワイナリーそれぞれが、非常な努力を重ね、「甲州ワイン」ブランドとしての明確なルールづくりにも取り組むことで、山梨県のワインの品質は向上されていったのです。
その成果がやっと今結実しつつあります。国税庁は最近「日本ワイン」のルールづくりを始めましたが、このような生産地の努力がより報われる形のものを作って欲しいものです。